ながくBARへ通っていると気がつくと“常連”という肩書き?がつく。そしてBAR初体験のような若い客をたまに見ると、昔も自分はあんなだったなと思ったりもする。その若い客がする注文やマスターとのやりとりをなにげに聴いたりしていると、いろいろ気になったりしている自分がいる。その若さでここへ来るんだとか、それを注文すんだとか、ちょっといじわるな気持ちで聞き耳をたてている。しかし自分は何も言わず気取って飲んでいるのだ。決しておせっかいな先輩気取りはしたくないと思うからだが、果たしてこれは“美学”なのか、迷惑がられるのを恐れているのかわからなくなる。
昔、まだ初心者だった自分にいろいろ語ってくれた先輩方がいたが、自分がそういった先輩方のような人物になっているかというとまだまだと思ったりもする。・・というか語っている自分を想像すると恥ずかしい。BARという場所は大人が、それなりのエチケットを守って飲むところというのが自分の中にある。だが、僕が今思っていることは大人としての行動にこだわっているのか、単に恥ずかしいのかわからなくなるのだ。そうやっていつもいたたまれなくなり「マスターチェックを・・!」と言ってしまっている。
このところ自然災害や予想しない事故などが多くなってきたように思う。あっという間に家族を失った人たち、生き残っても家を失い仮設住宅に今だに住まなければならない人たち。そういった人たちの姿をTVのニュース等で見ると、何とも言えない気持ちになる。それでも週末になれば、やはり飲みに行ってしまうのだが・・。
カウンターに座ってグラスを傾けるとき、こうやって飲めるというのは何て幸せなことなのだろうと考えてしまう。ウィスキーを飲み、熱い液体が喉を通ってゆくのを感じると嗚呼生きているなと思うのだ。そのウィスキーの語源は、ゲール語で「ウシュクペーハー”命の水”」というのをご存知だろうか。まさしく飲んだそのとき命が生き返るような心持ちになる。今夜も“命”の大切さ、ありがたさを感じながらウィスキーグラスを傾ける。
仕事を終えてストレスをかかえたままBARのとびらを開ける。そこには、いつものマスターの顔がある。まずいつもの一杯。液体が身体全体に染み渡り、身体に絡み付いていた鎖のようなものがほぐれていく。何杯か飲むうちにアルコールがまわり、打ちのめされていた気持ちが復活してくる。気がつくとマスターと、たいした話でもないことで笑っている。BARはいつも私にとって優秀な心療内科だ。昔、マスターとそのことについて話したことがある。そのときマスターが話してくれたのは、とあるとても繁盛していた心療内科に来る患者が、あるときからパッタリと来なくなったという。なぜなんだろうと医者は思っていたら、隣にBARができていたというオチだ。優秀な医者よりも独りのバーテンダーということか。
優秀な医者たちも日々ストレスをかかえている、そんな医者たちも疲れた心を癒すためグラスを傾ける。優秀な医者と優秀なバータンダーがいれば鬼に金棒!!元気に生きて行ける。
とあるバーテンダーとの話である。その店のバーテンダーはキリッとシャープな口あたりのロングカクテルをつくってくれる。たとえばジントニックのようなスタンダードなロングカクテルは、作り方がさほど変わるわけでもなく、なぜこうも作り手によって味がちがうのか・・という話になった。もちろん氷の状態 、グラスの冷え具合、材料の選択などがあるが、同じ店の中でバーテンダーによって味がちがったりするから不思議だ。で、そのバーテンダーは、いろいろ検証した結果、液体のそそぎ方にそのちがいが現れるということを発見する。それは、氷のある角度に液体を注ぐと氷が溶けにくくなり、シャープな口当たりになるということらしい。それ以上は企業秘密ということで聞き出せなかったが、そういうこともあるのかと関心した。おそらく名バーテンダーは、シェイク、ステア、注ぎ方など微妙な具合を意識せずに身につけているのではないだろうか。彼のように研究する人もいるのかもしれないが、おおかたのバーテンダーは理屈ではなく無意識にやっているのだろう。それによって材料、氷やグラスの状態が同じにもかかわらず、マスターと弟子の味がちがったりするわけだ。 それを聞いた後、もう一杯ロングカクテルを注文する。どんな具合で酒を注ぐのかと注意深く見てみたが、やはりわからなかった。
BARで飲んだ後、酔った足でフラフラと夜の街をフラつくことがある。シラフだと、どうってことのない道でも、酔って歩くと妙に楽しい。街に灯ったあかりがキラキラ見えて、おそらく昼間にみるとつまらない通りでも、なにか宝物でも落ちていそうな感じに見えてくる。アルコールの作用で妙に元気になって好奇心に満ちてくるのだ。あっちこっちをうろうろ歩きまわって、「はてさてこの路地の奥にはなにがあるのだろうか?」とどんどん見知らぬ通りの暗闇に入っていく。しかし、期待に反してそれほどの発見もなく、「あれっ、こんなとこに出てきた!」と見知った通りに出てきてガッカリする。
私は神戸で飲んだとき、それなりに元気で、夜風が気持ちいい季節の頃は、よく北野界隈まで足をのばして散歩する。北野の夜は人通りも少なく寂しいはずなのだが、それほど寂しい印象がしない。それはおそらく町並みのせいだろう。異人館などおしゃれな町並みが華やかな印象を与えるからだと思う。北野の夜は、ほとんどの店がもう終わっていて、わずかに開いている店がポツリポツリとあるという状態だ。通りのむこうのほうに、おっ、なにかあるぞ!と言って歩いていく・・・それがワクワクして楽しい。行ってみると店にはスタッフしかいなくて、その店だけがやたら光々とあかりが灯っている。すごくおしゃれな店なのだが、まわりは真っ暗。なんだかそのコントラストが面白い。